愚かなる独白

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愚かなる独白

ろくでなしの雑記

映画『TIME』はクソ映画

TIME/タイム [DVD]

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科学技術が進歩したことにより老化現象を解決した近未来、25歳で生体の成長が止まると余命はあと1年という社会が構築されていた。富裕層は寿命を気にしなくていい一方、貧しい人々は寿命を延ばすためにあくせく働き続けなければならなかった。貧しい青年のウィル(ジャスティン・ティンバーレイク)は、時間と引き換えに裕福な男性を殺した容疑を掛けられ、追われる身となってしまい……。

解説・あらすじ - TIME/タイム - 作品 - Yahoo!映画

前に一度友達の家で本作を見たのだが、内容は殆ど覚えていなかったので、Netflixでもう一回見た。その時にも感じたけど、やっぱりこの映画のれない。よく「設定はいいんだけど…」とか「アイデアはいい」などの意見を聞くが、いやいや、設定からしてクソだろ!と言いたい。

人類は遺伝子操作によって不老になり、残りの寿命をお金として使う世界。まぁ不老になるのはいい。そういう設定なんだな。だが、だからと言って『時間=お金』の世界になるか?ならねえよ!

25歳のまま老化が止まっている不老であり、時間をさらに手に入れることによって永久に生きられる。ということは、そもそも人間は永遠に生きられるが、なんらかの仕組みを人為的に作ることによって、寿命のなくなった人を意図的に殺しているということだ。

どういう意味があってそんなシステムにしているのかが謎だ。人口調節の為か?でもそれだったらわざわざそんなシステムにする必要がないし。せっかく不老不死になったんだからそのままみんな生きていけばいいのでは?と思う。

ましてや貧困層と富裕層に分ける必要もない。人間を不老不死にするほどの科学技術があるのであれば、社会のほとんどのことは自動化できる。例えば農業などは完全自動化が可能。服なども自動で作れるし、当然、自動運転車があるから移動の制限もない。こうなると死の恐怖も老いの恐怖もないから、争いごとがなくなる。もちろん色恋沙汰でのいざこざなどはあるだろうが、最低限の生活が底上げされるので資本の奪い合いが起きない。人類はひたすらエンタメに従事しエンタメを消費する生活になるだろう。

つまり『時間=お金』なんてややこしいことをしなくても人類は生きていけるから、この『時間=お金』という設定がいらなくなる。そうするとこの作品がなりたたなくなる。つまりこの作品ははなから無理があるということだ。

本来成立し得ない設定を使ったことによってほとんど作品世界が成立していないので、リアリティがなく、そのリアリティのなさがストーリー全体の粗を作っている。挙げだすとキリがないから書かないが、とにかく無茶苦茶だ。

時間=お金という大きな設定のおかしさもさることながら、細かな設定や描写もおかしいところばかり。

例えば『警察がいないことがおかしい』とか『武器が普通の重火器なのもおかしい』とか『金(時間の)レートが無茶苦茶』とか『政治家の存在が見えない』とか『スラム街の銀行になぜか時間が大量にあって強盗可能なのがおかしい(あの銀行はどこから時間を借りたの?スラム街では運営できないでしょ)』とか『寝てる間に時間の受け渡し可能とかセキュリティどうなってんの』とか『主人公たち簡単に強盗成功しすぎワロタ』とか、ご都合主義展開もいっぱい。細かな世界観の描写がないことは、描いてしまうと設定の持つ穴がバレてしまうから描けないのだ。本作の見どころの一つでもあるバトルも、正直意味がわからない。なにあれ?負けたら死ぬんだから負けそうになったら相手を殴るとかして暴れるだろ、普通。

まぁとにもかくにも、この『TIME』はバカが見るバカのための映画という印象。

社会性なんて必要ない

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社会性とは、集団をつくり他人とかかわって生活しようとする、人間の本能的な性質である。本能であるから、どんな状況になろうとそれは残り続けるものだと考えがちだが、実は違う。本能というものがなぜ存在するのかというと、生きていくために必要だから機能としてついているだけだ。つまり社会性も、ある環境下においては必要のない機能になることがある。そして今の生活、これからの生活では、社会性は必要のないものであると僕は考える。

人間は今どの段階にいるのか

元々人間は個体では生きていけないので、集団をつくり他人と協力しながら生き延びてきた歴史がある。同じ哺乳類では狼なんかも社会性のある動物だが、とにかく集団の中でしか生きるが術がなかった。

大体10万年くらいの歴史の中で、脆弱な個体から今の社会を構築して生き延びてきている特殊な種である人間。すでに都市部なんかは、インフラが整っており社会性が必要なくなっている。もう我々は集団で生活しないのだ。

食料を作る人や、家を建てる人など、職業として役割分担し、それぞれがそれぞれのサービスを享受しながら生きているからある意味他人と関わってはいるが、彼らが仲間だという認識はない。むしろ他者は、他の種のように敵である感じすらある。価値を交換しあって取引しているだけだ。それも意識的にやっているわけではなく、食物連鎖的に自然と取引し合うシステムが完成している。つまり社会性をという無駄をなくすためのインフラなのだ。

 

社会性の崩壊は技術の進歩でさらに進む

面白いことに、我々人間は、肉体すらも改造してさらなる高みを目指そうとしている。どんどんと、人間性という非合理をなくす方向に進んでいる。

もはや生殖すら必要なくなっているのが現状だ。恋愛は楽しみのためにやっているだけで、出産は負担だと思うからみんな子供を産まなくなってきている。子供が単純にペット的に可愛いから欲しいという人はいるが、ほとんどは子供を産まないと女じゃないといったような同調圧力に負けているのが現状だ。そしてAIやロボットなどが普及すると、そういった同調圧力も長期的にはなくなっていくだろう。

産業革命、IT革命と来て、機械化が進んでいる今の先進国の現状では、社会性や人間性といったものが非合理なものであり、邪魔なものになっている。それが良いのか悪いのかは知らないが、とにかくその方向に進んでいるのは事実だ。

 

人間の脳とAIの関係

人間の脳は元々こうなりたいというゴールがあって進化してきたわけではなく、その状況状況において欲しい機能を付け足していった結果、気づいたらこうなってましたというもので、これはいわば建て増しを繰り返した家のようなもの。綺麗ではないしポンコツだ。

よくAIを人間の脳と比較したり、人間の脳をお手本にするような論調を見かけるが、AIが人間の脳のようなポンコツを目指す必要なんかどこにもない。だから、何かしらの目的をゴールにして作り、機能的にも完璧の人工知能を作ることになる。

そして最終的には人間とAIというのは住み分けるようになる。今までのように、人間の非合理で完璧じゃない部分が残り、合理性や利便性といったものは機械に任せてしまう。

 

これからの行き方はどうなるのか

これまでの黎明期は、人々の関わりが薄くなり、社会性や人間性が失われるというふうに感じるが、これはむしろ進化と捉えることができて、無駄なことをしなくても良くなったのだ。

今までは個人の欲を抑えて、社会性を育むことが合理的な選択であったが、インフラが整い安定した社会が完成し、社会性(他者との同調)を持つことが必要なくなった。簡単に言うと、機械が助けてくれるから生存を脅かされる心配がなくなったということだ。

そうすると、前人間的に生きたくて社会を築いていく人と、今までは他の人に任せていたようなことを機械に代替させて新しい人間として生きて行く人で二極化が進む可能性がある。

そして前人間的に生きたい人は、そうしないといけないからするのではなくて、自分がやりたいからやっているということになる。要はエンタメだ。そういった非合理な部分というのはエンターテイメントとして楽しまれるようになるのだ。人間は非合理な部分を楽しむために存在し、生きていくのに必要な合理的な部分は機械が代替する。

社会性は生きていくための必須条件ではない、ただの趣味だ。

言葉は正しく使うべきだと言っておく

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ネット上で議論になると、結局は本題をそっちのけで、一つの言葉を巡って揚げ足取り合戦になり、最終的に「まぁ言語というのは日々変化していくものだからね」みたいな結論に至るのをよく見る。

確かに言語は日々変化していくものだ。しかしだからといって、すでに定義してある言葉を、積極的に違う意味で使っていいわけではない。もう世間のほとんどの人が、本来の意味とは違うニュアンスで認識している場合は仕方がないとしても、そうでないのならばしっかりと定義を調べてお互いに認識し、よく考えて言葉を使うべきだと思う。

僕も話は苦手だし文章も上手くないが、それでも学生時代、国語と数学だけはズバ抜けて点数が高かったということもあって、特に言語に関しては真摯に考えている方だと思う。今日はそんな僕が言葉について少し考えてを書いてみようと思う。

言葉は一体何の為にあるのか

多くの人は、言葉はコミュニケーションをとるためにある、と思っているかもしれないが、実は違う。コミュニケーションをとる為であれば、別に言葉は必要無い。人間以外の動物だって、言葉以外の方法を使ってコミュニケーションをとる。

人間は言葉を使って、全てを認識し、思考し、理解し、洞察し、表現する。つまり言葉は人間の知性だ。知性ということはつまり人間の本質と言っても過言ではない。言葉を使いこなすからこそ、人間は人間であるのだ。

言葉というのはそれほど大切であり、その言葉を疎かに考えている人ははっきり言って信用ならない。信用ならないというのは何も人を欺くとかそういうことを言ってるわけではなく、言語に対して不誠実な人はそもそも思考もズレている可能性が高く、また本人もそのことに気づいていない。簡単に言うと、言葉を正確に使わない人はバカであるということだ。そういう意味で信用ならない。

 

普段どうやってコミュニケーションをとるか

大層に書いてみたものの、僕自身、普段の会話などではさほど正確さを求めていないのも事実。僕の話している内容を文面に起こすとおそらく間違いも多いだろう。

ネットで言葉について検索してみると多くあるのが、言葉の不正確さによる対人でのトラブル。だがはっきり言ってそんなものはどうだっていい。我々は普段の会話では、それまでの知識や経験から言葉の意味を読み取っている。その都度言葉の本来の意味や成り立ちなどを考えない。こういう状況でこういう発言をした場合はこうだな、と解釈しているだけだ。だから多少の認識のズレがあっても後で説明しなおせば済む話だし、よっぽどのことでない限り笑い話で終わりだ。

普段のコミュニケーションなんていうのはそんなもので、そもそも人間は言葉よりも態度を信用する。もっと正確に言えば、発言と態度が矛盾している場合、態度を信じるのが人間の心理だ。

例えば、「好きだよ」と女に声をかけて「うるさいバカ」と拒否していても、その子が顔を赤らめて恥ずかしそうにしていると、喜んでいると判断するのだ。

これは心理学でメラビアンの法則と呼ばれている。よく誤解されているが、あくまで発言と態度が矛盾している場合のみだし、相手に好意や反感などの単純なメッセージを伝える場合など、限定化された条件でのみ発生する法則だ。

話が少し脱線したが、とにかく、普段のコミュニケーションにおいてはさほど言葉の正確さを気にする必要はないだろう。

 

間違った言語を使うと思考がズレる

それ以上に問題なのが、間違った言葉を使っていると(間違って覚えていると)思考自体も間違った方に流れていくということだ。簡単な例を出すが、リンゴのことをバナナという言葉で覚えていると、「くまのプーさんの肌の色はなんでしょう。ヒントはバナナと同じ色」というクイズがあった場合、論理的に答えを導き出せなくなってしまう、というような問題が発生するということだ。

いい加減に言葉を使っているがために、おかしな思考に陥ってしまっている人をよくネット上でも見かける。前にYouTubeのコメント欄で、「外人という言葉は差別だ」というものがあった。それに対してレスがいくつもついており、反論やら同意を示すものもあった。

僕は外人は差別用語ではないと思っている。外人は外国人の略だし、自国の人間以外を示す言葉であって、その言葉自体に差別的な意味合いはない。僕はそもそも”差別用語”なんてものは存在しないと主張している。言葉はあくまで言葉でしかない。ある言葉をどういう文脈で使ったのかということの方がよっぽど大事だ。

つまりこの場合、外人という言葉をどうやって使ったかが問題だ。ただ単に外国の人を指すときに使ったのか、友達と寿司に行く約束をしている時に留学生の友達が自分も行きたいと主張すると「お前は外人だから生魚食えないだろ」と言ったのかで全然違ってくる。全ては文脈が大事なのだと思う。だから差別表現はあっても差別用語など(侮辱専門の造語などの例を除き)存在し得ない。

と、このように、一つの言葉を取ってもみても、言葉を正確に認識していない(というより言葉について深く考えていない)人は外人という言葉を差別用語とし、単語に罪を被せ、差別の本質を見誤っている。差別になりそうな言語を使わなければいいわけではないのに。

あくまで一例にしか過ぎないが、この手の問題は数多くある。

 

造語における言葉の安易さ

これは造語だが、”中二病”という言葉も(発案者は伊集院光中二病 - Wikipedia)、本来は「中学2年生頃の思春期に見られる、背伸びしがちな言動」を自虐する語であったが、間違った解釈が広まってしまった。例えば映画『ファイトクラブ』は中二映画と認識されたり、ロックバンドのニルバーナは中二バンドと言われている。あろうことか、ボーカルのカート・コバーン中二病と言う奴まで出てくる始末だ。

伊集院光が定義した中二病という言葉は、元々あった概念を言語化したのであって、無から有を生み出したわけではない。でも間違って広まった中二病は、無から有を生み出した。つまり、中二病という言葉だけが作られ、その本質はまったく空虚で無意味な錯覚の概念であり、その錯覚に人々が引っ張られているという滑稽な状態になってしまっている。

本当はおかしいのだ。ファイトクラブは中二映画ではないし、ニルバーナも中二バンドではない。そもそも間違って広まった中二病の定義はなんだ。どういったものを指すのだ。ファイトクラブが中二映画だという根拠はどこにある。ニルバーナの何を指して中二病なんだ。

結局非常にぼんやりとした抽象的な感覚で使われているだけ。それは実態がないからだ。つまり、ぼんやりと定義づけもされないまま中二病という言葉が氾濫し、わけもわからずなんとなくであらゆるものに中二病認定するからこうなる。要は、定義されていない意味のわからない単語を使って、なんとなくであらゆる物に当てはめて、新しい概念が生まれたのだ。そしてその概念は人々の感性の集合体によって、無自覚に作られた空虚な概念である。

元々ある概念を言語化することには非常に意味がある。上記したように、人間は言葉で思考をするから、漠然とした概念を言語化することによって思考がスムーズになるし、物事も分析しやすくなる。だが無理やり言葉を作って醸成した空虚な概念は、なんの意味もないばかりか、正常な判断をできなくし(例えばファイトクラブという傑作を正当に評価できない風潮がでたりする)、人の行動に制限を作ってしまうという弊害がある(中二病だと揶揄されるのが怖くてニルバーナを聴かないなど)。

つまり、例え造語だとしても安易に作るべきではないし、「言葉というのは変化していくものだから」で済ましていい問題でもない。変化した結果が正しくないと感じるのであれば、それは正していくべきだと思う。

 

言葉は深く論理的に突き詰めて考えていかねばならない

普段の会話はある程度不正確に使ってもいいと思うが、ちゃんと言葉の本来の意味や、使い方などを理解しておかなければならない。もしそうしないと思考からズレが生じ、いざという時に間違った選択をしてしまう可能性もある。これは逆説的に言えば、言葉を正しく理解できていると賢くなるということでもある。昔は「国語なんてどうでもいい」と思っていたが、今になって日本語をしっかり勉強することの大切さがよくわかる。

まとめると
・言葉は人間が思考する為にある
・間違った言葉を使っていると正しい思考ができない
・造語といえども安易に作るべきではない
・常に言葉には気をつけて論理的に突き詰めて考えるべきだ
ファイトクラブは傑作 

現状維持する奴は終わっているという話

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何事においても現状維持をする人というのはよくいる。とにかく変化や進化を拒み、今ある状況を崩したくないという子供みたいに駄々をこねる人たち。その気持ちはわからないこともないが、でもやっぱり良くないことだ。現状維持でもいいんだと主張するブロガーなどもいるがそんなものはただのポジショントークだから、聞く耳を持たないほうがいい。なにより、現状維持する方が成長変化するより大変だ。

なぜ人間は現状維持してしまうのか

人間が現状維持を求める理由は簡単で、それは、人間はよく知っているものに過度に安心するから。逆に言うとよく知らないものには過度に不安を感じる。でも結局それは錯覚だ。自分の脳が勝手に感じているだけ。

自分の脳が勝手に感じている錯覚と、実際の危機のどっちを優先するかは明白である。本当に現状維持しないと自身に危険が及ぶのであれば、変化したくないという感情に従えばいいが、そうでないのなら感情に従うと間違った結果を生んでしまう。だから一旦冷静になって考えてみよう。そして僕ははっきり言い切るが、現状維持はやめて前に進んだ方が良い。

 

変わらなければならない状況を待つのではなく自分から変わる

人生において変わらなければならない状況というのがある。会社をリストラされたとか、いじめにあっているとか色々。他にも政治状況が変わったとか、流行、世代交代などによって今までとは違う状況になってしまうことがある。それらは変わらなければならない状況だが、そうなってから変わっていたのでは少し遅い。いつもいつも変わらなければならない状況になってから変わっていたのでは、常に後手。常にレイトマジョリティーだ。残り物を食わされる。

だからそんな状況を待つのではなく、常に変化成長を続けていける人間にならないといけない。変わることが必ずしも成長ではないかもしれない。しかし世の中の状況に合わせて自身も変化する。流れに身をまかせるのだ。

一番大事な意識は、自分が人生の主人公だと意識することだ。そう思うことで、小さな変化でもいいから行動に起こせるようになる。

参考リンク:被害者意識を持つのはやめろ!あなたは可哀想じゃない - 愚かなる独白

 

起きたことに支配されないようにすべし

そしてこの考え方も大事。起きたことはコントロールできないが、起きたことに支配されないことは可能だということ。我々は神じゃないのだから、起きた事実を変えることはできない。例えば母親が死んだ時、その事実を変えることはできないが、その事実の捉え方はこっちの勝手だ。母親が死んだのを絶望と捉えるのか、新たな人生を歩みだすチャンスと捉えるのかは自由。

自分にとって都合の良いように解釈すればいいのだ。それが自分にとって得なのであれば。

 

変化を先延ばしにしてはいけない

世の中は常に変化し続ける。自分の意思とは関係なく、変化を求める人たちがどんどんと世界を変えていってしまう。なのに自分だけ現状維持しようとすると、そこでズレが生じて苦労する。だから変わらなくちゃいけない。それは難しいことじゃない。ただ流れに身をまかせるだけだ。

変化が怖いという人の特徴として、変化のネガティブな面ばかり見る。しかしどうだろう。いくら怖がっていても最終的には世の中は変わってしまうのであれば、うまく自分も波に乗るために、変化のポジティブな面を見るようにして、変化したいと思えるようにしたほうが楽じゃないだろうか。

物理法則的にも、どんな物質も拡散していく性質があるので、今ある形を維持しようと思ったら、さらにでかいエネルギーが必要になる。つまり現状維持は物理法則にも反しているのだ。

自分が変わりたくなくても世の中は変わる。それに抵抗しようとすると苦しむし、他者にも迷惑。だから起きたことに支配されないようにし、ネガティブな面ばかり見ないで流れに身を任せよう。

みんな日記を書くべきだ!日記の驚くべきメリットとは

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社会生活を営む上では、いろんなストレスがある。誰か友達に愚痴ったり、解放する場があれば多少はストレスを軽減することができるだろうが、友達もいない人も多いだろう。だが実はそんな人たちのストレスを解消する方法がある。心理学用語でエモーショナル・ディスクロージャーと呼ばれる効果がある。今回はそのエモーショナル・ディスクロージャーについて説明していきたいと思う。

エモーショナル・ディスクロージャーとは

アメリカの心理学の実験で、リストラされた人たちに1日20分、怒りや不満を口にさせたグループと、させなかったグループに分けたところ、不満を口にしたグループは一週間後、気持ちが明るく安定した。

さらに数カ月後、彼らの再就職率を見ると、エモーショナル・ディスクロージャーを行ったグループは53%、何もしなかったグループは14%という結果になった。

つまり人間は愚痴ったほうが(ネガティブな感情を解放したほうが)精神が安定するということだ。

 

感情を抑え込むことは良くない

「自分が悪いんだ」「もっと頑張らないと」という風に、感情を抑え込んで溜め込むと、悩む時間も長くなり、それが癖になると最終的には鬱や不安障害なんかにもなりやすくなる。碇シンジはアウトだ。逆に言うと、鬱などを抱える人はエモーショナル・ディスクロージャーが苦手なのだろう。

さらに、女性よりも男性のほうが弱音や不平不満を口に出すことはし辛い環境だ。それにあまりネガティブなことばかり言っていると友達もなくす。

 

みんな日記を書くべきだ

愚痴れない人は、その日1日の不満や怒りと、逆に嬉しかったことや自分が成し遂げたことを日記につけると精神衛生上良い。

自分の気持ちの整理をつけることができないと現代社会では非常に生きにくいだろうから、みんなも日記を書くと良い。

日記はどんなものでもよく、ブログでも良い。完全匿名で誰にもばれないようにしていれば問題ないし、アクセスが稼げればお小遣いにもなる。

だからみんな日記を書こう。

 

被害者意識を持つのはやめろ!あなたは可哀想じゃない

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何かあったときに「親が……」「友達が……」「上司が……」と他人のせいにしてしまうことは人間なら誰しも経験する。自分が被害者であり、悪いのは他人だと思ってしまう。でもこの考え方は良くない。もし本当に他人のせいだったとしても、それを言ったところで状況は変わらないし、誰も得しない。だから被害者意識というのはなるべく抑えるべきだ。

被害者意識を持つことのデメリット

被害者意識というのはつまるところ、原因を外に探している状態だ。何か悪いことが起きた時、不本意な状況になってしまった時に、誰かのせいにすることで納得しようとしている。

その気持ちはもちろんよくわかるし、しょうがない部分もあると思う。しかし、誰かのせいにすることを続けていると、他者へ攻撃するようになる。悪口を言ったりして、態度に出てしまう。そうすると人間関係も悪くなるし、根本的な問題も解決しない。解決するどころかむしろ悪化している。

だから、他人の言動にいちいち反応して他人を責めることをやめるべきだ。

 

スルースキルを持とう

考え方を変える。例えば親に何か文句を言われても、それは親の問題であってあなたには関係がない。”親がどう思うか”はあなたには関係がないのだ。ちゃんと問題を分けて考えよう。他人の言動はあなたには決められないが、それに自分がどう反応するかは自分で決められる。

これはつまり、自分にできることとできないことを見極めて、できないことをうだうだ考えるのをやめようということだ。世間の多くの人は、自分の干渉できる範囲外のことで一喜一憂しすぎなのだ。

例えば災害などを例にとっても、地震などは技術の進歩や長年の知恵のおかげで予測できるようにはなったが、それはあくまで予測して対策をとるだけで、地震そのものを止めることはできない。だけど人間は自分たちでできる範囲でなんとか被害を減らそうと努力している。つまり、大事なのは自分のできることを最大限頑張ることだ。

人間の感情だってそれと同じで、他人の思考をコントロールすることは不可能なのだから、何を言われても無視したり流せるように自分の感情をコントロールしよう(自分ができることをやろう)。

 

やりたくないことを引き受けたのは自分だ

何かやりたくないことでも、他人に頼まれたら断れずに引き受けてしまうことがある。その結果ストレスも溜まるし、「あいつにやらされた」とやらせた相手を責めてしまう。だがそんなことは今すぐやめるべきだ。最終的には自分で引き受けたくせに、頼んできた相手を責めるのは被害者ヅラをしてるだけ。

断りにくかったというのもただの言い訳。相手のためにやったというのも責任をなすりつけてるだけ。そんなものは無価値。それは原因を外に求めているだけだ。そういう考えでいると、自分のできること、できないことを見極めることができなくなる。

実は解決策は簡単で、嫌なら断ればいいだけだ。断ればいいだけなのに、最終的に引き受けて、「あいつがやらせたからだ」と恨むのは”自分のできないこと”に目を向けてストレスを溜めている状態だ。そんな無駄なストレス感じる必要は無い。

暴力やら何やらで強制されたのでない限りは、相手を責めるのをやめて、嫌ならはっきり断ろう。自分で選択できる範囲は自分で選択して、他人の顔色を伺ってコントロールされてはいけない。
(参考記事:マナーを守る奴はただのビビり。迷惑をかけることは悪いことじゃない - 愚かなる独白

 

感情を素直に表現するべき

アドラー心理学では、怒り以外のネガティブな感情、例えば悲しみや苦しみなどは一次感情で、怒りは二次感情だとされている。人間が怒るときには、一次感情が出た結果として、二次感情の怒りが出るのだ。つまり悲しくなってどうしようもなくて怒ったり、苦しくてどうしようもなくて怒ったり、寂しくてどうしようもなくて怒る。

これを解決するには、怒りをぶつけても意味がない。一次感情の方を解決しないと怒りはおさまらないのだ。

だから何か頼まれたり、他人に何か言われたり、何かされたりした時には、自分の感情を怒りにしてぶつけるのではなく、感情を素直に表現するべき。例えば恋人に浮気されたら「なんで浮気したの!?」と怒るのではなく、浮気されて悲しいと伝える。嫌だから怒るのではなく、嫌だから嫌だと伝える。こういう点を意識するだけでトラブルは避けられるし、自分の怒りも沈んでいく。

「感情を伝える」ということと、「感情的に伝える」ということは違うということを覚えておいて欲しい。自分が今どういう感情なのかを論理的に伝えれば問題ない。

 

自分が人生の主人公だと意識しよう

被害者意識という外部に原因を求める思考をやめて、自分自信を強く意識しよう。つまり自分は主人公なんだと考えるといい。例えばゲームの操作キャラ(主人公)であれば、自分で欲しいアイテムは自分で取りに行かないといけないし、まずい状況なら自分で回避しなければならない。

ゲームでは負けイベントというストーリー上の演出がある。絶対に負ける戦いがプログラムされている。そういうのは頑張ったって意味ないのだから、華麗にスルーして、その後自分ができる範囲でどれだけ頑張るかがポイントになる。

このように、自分が主人公なんだと意識することで、自分の欲しいものがあるときは自分でちゃんと行動するようになるだろう。

まとめ、
・被害者意識を持つことはメリットがないからやめる
・自分のできることと、できないことを見極めて、できることだけ考える
・他人に流されず自分の意見ははっきりと伝える
・感情を素直に表現すればトラブルは避けられるから心配ない
・自分が人生の主人公だと意識する

労働者は底辺だと自覚しないと金持ちにはなれない

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 ネット上で「運送業は底辺じゃない」とか「建設業は底辺じゃない」とかの意見があった。彼らのロジックとしては、人の役に立っているからとか、世の中に必要な職業だから、といったものだった。確かに役には立っている。僕が今住んでいるマンションもそういった労働者がいなければ作られていない。しかし、底辺かどうかは役立っているかどうかで決まるものではない。どんなに役立っていようと、どんなに素晴らしい職業だろうと、底辺は底辺だ。いわゆる”社畜”と揶揄されているものに過ぎないのだ。

資本主義における階級

我々が普通に生活していても気付きにくいが、現在の資本主義下においては、4つの階級に分かれている。ある階級と階級の間に目に見えるような壁があるわけではないが、資本主義社会で価値を提供している人たちは4つに分類できる。

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資本家
一番上には資本家がいる。これは投資家に対して金を貸す人たちだ。日本では個人レベルでやっている人は殆どいない。

投資家
資本家の下には投資家がいる。彼らは自分の資本(お金)を企業などに投じてリターンを得る者だ。資本家と投資家の特徴としては、自分が働くわけではなく、お金に働いてもらうところだ。

経営者
経営者はその名の通り、会社を経営する人のこと。彼らは自分自身が働く必要があるが、労働者を使うことによって、自分のやりたいことを成し遂げ、利益も最大限増幅させる。

労働者
一番下には労働者がいる。労働者は労働する者を指す。サラリーマンやバイト、パートなどは労働者だ。彼らの特徴は自分の時間を提供して対価を得るということ。

 

労働者は他人のために働いているようなもの

こうやって見るとわかりやすいが、労働者は経営者がやりたいことのために雇われ、投資家や資本家達を稼がせている。ある意味搾取されているようなものだ。労働者が底辺だと言われるのは一番下にいるからという簡単な理由である。

なんの技術もなく、やりたいこともないという人がとりあえず就職しているが、それは自ら搾取されにいってるようなもの。自ら進んで底辺に行っている。本来は逆でなければならない。好きなことややりたいことがあって、それが企業に雇われることで成立するものだったら雇用されてもいいが、なんの技術もないのなら経営者になったり投資家になるべきである。

現実的になれるかどうかはしらないが、はなから労働者を目指すのは思考停止としか思えない。

 

時間とお金のどっちが大切か

労働者は自分の時間を売ってお金に変えている。時間とお金を交換しているのだ。だがよく考えてみよう。時間とお金ではどちらの方が価値が高いか。当然時間の方が価値が高い。つまり労働者は損する取引をずっと行っているようなものだ。

対して投資家はお金に働いてもらって自分は自由な時間を得ている。そして自分ではなく、お金を貸し出すことで、他人に働かせているからたくさん稼げる。そのかわり、その貸し出したお金が必ず返ってくるわけではない。損することもあるということだ。つまり投資家は自由を得るかわりにリスクを背負っているということ。

しかし、例えお金を損したとしても自分の自由の方が大切なので、そのリスクは背負うに価するリスクだというわけだ。

自由があるのは相当強い。投資しながら好きに労働することだってできるからだ。逆に言えば労働者も投資ができる。

 

誰だって上の階級に上がれる

僕は個人的に好きなことをやってる奴が一番強いと思うが、そんなものないという人にとって重要なのは、いかに働かずに金を得るかだ。もし自分の好きなことをやっているわけでないのなら、働かずに金を稼ぐ状況になれるために働くべきであって、その場しのぎで働くのはやめるべき。

まず消費を抑えて、浮いた金を投資に回す。そして労働しながら他の労働者から搾取すればいい。別に法的に制限されているわけでもなんでもないのだから、誰だって起業できるし、投資もできる。

「労働は尊いことだ」なんて言ってるのは、自分は正しいんだと思いたい負け組の労働者か、奴隷のように働いてくれる駒が欲しい経営者、投資家の言い分だ。そのことを自覚しないといつまでたっても金持ちにはなれない。

って誰かが言ってた