愚かなる独白

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愚かなる独白

ろくでなしの雑記

短編小説『マゾヒストの叫喚』

自作小説

マゾヒストの叫喚

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 トモコは笑みを浮かべていた。
 テルは、彼女の余裕綽々な態度が不思議でならなかった。普通、拷問される前は、緊張と恐怖のあまり身を震わせてもおかしくはない。いや、今はそれ以上に怯えるべきだ。何せ相手はあの熊田組長だからだ。彼の異常性は組の関係者なら誰だって知っていることで、彼女もそのことは十分にわかっているはずだった。
 テルは車庫に車を駐めて、後部座席に手錠をかけられて座っているトモコを降ろすと、車庫の中の扉から家に入る。だが、トモコは入らずに立ち止まっていた。テルは半ば強引に、彼女の二の腕を掴み中に引き入れる。怯えていたわけではないだろう。何故ならその時だって、トモコは相変わらず不気味な薄ら笑いを浮かべていたからだ。


「お前、今からどうなるかわかってんのか?」
 
 テルが聞くと、トモコはキリッとした切れ長の目をテルに向けて、勿論と言いたげな表情で頷く。

「お前一体何をしたんだ」

 まだ下っ端のテルには事情は知らされていなかった。ただ命令された通りに動くことしか許されない立場である。

「えぇっと、なんだっけなぁ……」

 トモコは斜め上を見ている。なぜか自分のやったこともわかっていないらしい。薬物でもやっているのかと思う。
 テルが呆れて前に向き直ると、トモコは口を開いた。

「あ、そうそう。組の金を盗んだのよ」

 驚いた。ヤクザから金を盗む勇気があるなら強盗をした方がよっぽど楽だ。

「で、その金はどうしたんだ?」

「隠したって感じ」

 トモコはわざとらしく冗談交じりに胸を張った。
 なぜこんなにも堂々としているのだろう。金のありかを話せば拷問されずに解放されると思っているのだろうか。
 テルは詮索を止め、地下の拷問部屋に通じる階段を降りた。

「ここに入るとどれだけ助けを求めても絶対に外部には聞こえないからな」

 テルは一切動揺しない生意気な女を脅す気持ちで言った。
 郊外の住宅街にある一戸建て。外から見ると幸せな家族が住んでいるようにしか見えない。だが実態は、熊田組長が個人的に所有する”拷問ハウス”だった。
 玄関を入ると目の前に階段があり、その階段の裏は収納になっていて、床に扉がついている。そこを開けると地下に続く階段があるのだ。
 地下は完全に防音で音は一切漏れない。中は二十畳ほどの正方形で、壁も床も全てコンクリートだった。横には薬品や医療器具が置かれた棚があり、中央には対象者を座らせるための椅子がある。数多くの絶望を染み込ませた木製の特注椅子は、厳然とした態度でそこに構えていた。その椅子のすぐ隣にはステンレス製の台車があった。台車の上には、ラベルを剥いだ栄養ドリンクの空き瓶に、一輪の赤いカーネーションが挿してある。
 テルはトモコを椅子に座らせて、両手両足を椅子についているベルトに固定した。そしてトモコを残したまま二階に上がり、リビングのソファーに座った。殺風景なリビングだ。必要最低限の物以外ほとんど何もない。
 大きくため息をつく。
 テルは拷問ハウスの管理を任されていた。管理とは、この家に住むということだ。だが実際の拷問に遭遇するのは今日が初めてだった。前任者が逃亡し、急遽テルが任されたからだ。前任者は逃亡したと聞かされてはいるが、おそらく殺されている。組長視点から見ると、犯罪の現場を目撃をした人間を逃すわけにはいかないからだ。
 熊田組長は簡単に人を殺す。もはや殺人衝動を持つサディストだった。と言っても、実行するのはジェイソンと呼ばれる別の男だ。熊田組長の飼っている拷問師らしいが、テルはまだ見たことがない。今日初めて会う予定だった。
 テルは熊田組長を信頼していない。独善的でサディストで、組内でも常に熊田組長からのいじめは絶えなかったからだ。意味もなく真冬に裸で外に立たされたり、顔中にピアスの穴を開けられている組員もいた。
 テルは組長からの盃は貰えなかったから正式な組員ではなかった。だがその後、新規オープンされた風俗店に中国系の組織が脅迫に来た時、たまたま客として来店していたテルが話をつけた。そして店長と仲良くなり、その店のケツことになった。そのことでテルは熊田組長に気に入られ、一週間ほど前にこの家の管理を任されたというわけだ。
 だが正直、今すぐにでも帰りたかった。テルに加虐趣味はない。ましてや女性を拷問する場面なんて極力見たくなかった。それでも断るわけにはいかない。極道の世界では親が言ったことは絶対なのだ。
 台所の換気扇の下で煙草を吸っていると、一階から熊田組長の声が聞こえた。テルは急いで煙草を揉み消し、一階に降りる。
 玄関のたたきに、身長一七◯センチほどの細身の男がいた。熊田組長だ。彼は56歳で軽く白髪混じりだが、ファッションは若々しく、両耳にはごついピアスをつけている。痩せ型なことと目の隈のせいか、全体に退廃的な雰囲気を纏っており、鋭い眼光はもうきんるいのそれを思わせる。
 熊田の隣にはニット帽を被った大男がいた。

「あ……お疲れ様です。用意は出来てます」

「ご苦労さん。これ、ジェイソン」

 熊田組長は大男を指差した。ジェイソンは死んだ魚のような目でテルを見据えた。全てを見透かしたかのような不気味な視線に気圧される。
 テルは少し頭を下げた。

「で、トモコはおるんか?」

「はい。下で待機させてます」

「んじゃ行こうか」

 三人で地下に入る。
 トモコはこっちを見るなり笑顔で挨拶をした。

「おうおう、こんなとこに縛られて……大変だな」

「そうなの」

 トモコと熊田組長はわざとらしい笑顔で言葉を交わす。二人は元々愛人関係らしいが、互いに緊張しているのか、はたまた興奮しているのか、いずれにせよ妙な緊張感が漂っていた。
 
「じゃあ早速やるぞ」

 熊田組長はそう言ってテルにハンディタイプのカメラを渡した。

「これは?」

「撮るんだよ」

「ああ……」

 テルは引きりそうになる顔を必死に抑えた。

*****

 ジェイソンは早速トモコの服を剥ぎ取り裸にした。
 トモコの左の乳房は潰れて皮膚が余っており、綺麗な顔とは対照的に、身体中至る所に縫合跡や擦り傷がある。
 ジェイソンは地面に看板を打ち込むときに使うような大きいハンマーを手に取り、野球選手ばりのフルスイングでトモコの右乳房に叩きつけた。蛙が潰れたような肉の生々しい音が響くと同時にトモコは衝撃で声が漏れ、ひどく咳き込みながらぎゅっと手を握った。
 見ると右の乳房は潰れて真っ赤になっている。テルは顔をしかめながらもその様子をしっかりとカメラに収めた。
 しばらく痛みに耐えた後、トモコは笑った。

「拷問師っていうからどんなもんかと思ったけど、ハンマーで殴るなんて誰でもできるじゃん」

「何を言ってる。まだ何も始まっていないぞ。
 俺は神経質でな。今のはただバランスを整えただけだ」

 ジェイソンは感情のこもらない低い声で呟いた。
 テルが背後にいる熊田組長をいちべつすると、彼は能面のような無機質な顔でトモコを見ていた。
 ジェイソンは棚から色々な道具を持ち出してきて台車の上に並べていった。
 メス、ほうごうかん、縫合用糸、クーパーせんとう、メイヨー剪刀、持針器、せっ、注射器などの手術用具があり、抜歯用ペンチやピンセットなどの歯科用器具もある。下の段には包帯、ガーゼといった衛生用品。血管収縮剤や接着剤などの止血剤の他に、アンモニア水などの薬品も並んである。他にもハンマーや釘、ペンチやノコギリなどが入った工具箱もあった。
 それらの道具を見てテルは背筋が薄ら寒くなった。
 ジェイソンは工具箱を漁り、缶切りのような道具を手に取った。

「これで爪を剥ぐぞ。どこから剥いでほしい?」

 ジェイソンはその缶切りのような道具をトモコに見せ、言った。
 拷問では相手に恐怖を与えなくてはならない。ゆえに今から行うことを事前に対象者に話し、想像させる必要があった。ジェイソンはその道具の使い方を丁寧に説明した。

「どうぞ。お好きなように」

 トモコはこの後に及んでまだ余裕の笑みを浮かべている。
 ジェイソンがトモコの足元にしゃがんだ。テルがいる位置からではジェイソンの背が邪魔で見えない。
 突然トモコが声をあげた。
 テルが苦痛に歪む表情をカメラで撮っていると、熊田組長に背中を押された。振り返ると、組長は顎をくいっと前に突き出して「足元を撮れ」と合図した。テルは軽く会釈してジェイソンの隣まで近づく。
 トモコの左足の小指の爪と薬指の爪が綺麗に剥がれて、ピンクの肉が剥き出しになり血が指にまとわりついている。
 ジェイソンは手を止めることなく淡々と中指、人差し指、と器用に剥いでいく。親指の爪も、ミシミシと音を立てながら捲り取られていった。爪が剥がれるときにトモコは歯を食いしばり気張っていた。時折漏れる「うぅ」という声がテルの恐怖心を煽った。
 ジェイソンが鼻から息を吐き出し立ち上がる。トモコはすでに汗びっしょりだった。
 テルは心が痛んだ。こんな華奢な女性にジェイソンのような大男が暴力を振るうことに、単純に人としての苛立ちを覚える。胃の辺りがムカムカした。
 だがそんなテルの心配をよそに、トモコは半笑いでジェイソンを睨みつけていた。
 なんなんだこいつは……。テルはその目つきに圧倒され自然と後ろに下がる。
 ジェイソンはトモコの挑発的な態度を意に介さず、今度は工具箱から片側が釘抜きになっているネイルハンマーと、コンクリート釘と書かれた手のひらサイズの箱、さらに棚からまな板のような木の板を持ってきた。

「次は指をこの板に釘で打ち付ける。骨ごといくけど、いいか?」

「ダメって言ってもやるんでしょ。まあいいけど……」

「大多数の人間は両足の指、十本全て打ち込む前に痛みで失神する。
 指先というのは神経が集中しているんだ。その痛みは並大抵のものじゃない。お前が今までに経験してきたプレイなんぞの比ではないぞ」

 ジェイソンはそう言って、板をトモコの足の下に入れ、箱から釘を取り出して構えた。

「じゃあまずは小指からだ」

 ジェイソンは小指の、爪が剥がれて剥き出しになった皮膚の上から真っ直ぐ釘を打ち込んだ。トモコは驚いたような表情になり椅子から飛び上がりそうになる。だが手足が拘束されていて少し尻が浮いただけだった。
 ジェイソンは大工のような手際で薬指、中指、人差指、親指と釘を打ち込んでいった。その度にトモコは女らしい叫び声を上げて、まだ健康な右足をバタバタと動かした。
 トモコに先ほどまでの余裕はなくなっていた。息が荒くなり顔色も悪い。
 
「あ、ああ……足の感覚がない……ははは」

「じゃあ右足も同じようにするか。でないとバランスがとれないからな」

 ジェイソンはトモコの右足も同じように爪を剥ぎ、釘を打ち込んだ。小指だけ斜めに刺さってしまい、一度抜いて、また刺した。その時にトモコは、ジェイソンの言った通り失神した。
 失神した時、熊田組長は股間を膨らませながら笑った。
 ジェイソンはコットンにアンモニア水を染み込ませ、トモコに嗅がせて覚醒させた。そしてトモコの頭からペットボトルの水を掛け、少しだけ飲ませた後テルの方を向く。

「冷静な状態でいてもらった方が痛みを感じやすくていいだろ」

 笑っていた。
 次は家庭用ゲーム機くらいの大きさの変圧器を持ってきた。コードの先にはワニクリップがついてある。ジェイソンはワニクリップを足に刺さっている釘につけた。
 電気を流すんだとテルは思う。

「おい、お前。もういい加減金の在り処をゲロったほうがいいぞ」

 テルが言うと、トモコは目を見開いて大笑いした。

「何言ってんのアンタ」

「このままいくと殺されるぞ!」

「いいじゃんいいじゃん、それいいじゃん」

「おい。私語はいいからさっさとやるぞ」
 
 熊田組長が不機嫌そうに言うと、すぐさまジェイソンが変圧器の電源を入れた。
 トモコは顔を目一杯引き攣らせ、呻き声を出しながら全身硬直した。十五秒ほどしてジェイソンが電源を切るとトモコは気絶していた。そしてすぐ覚醒させ、また電気を流した。それを何度か繰り返すうちに、トモコの目は充血して話し方もしどろもどろになった。
 蒼白な顔をこちらに向けて何かを訴えている。
 ジェイソンはそれを無視して足指に刺さっている釘を抜いていった。トモコの悲痛な叫び声が地下室に響いた。テルは驚いて、ごくりと唾を飲み込む。
 指に開いた穴から血がドクドクと噴き出しているが、ジェイソンは上から接着剤をかけて無理やり止血した。
 全身に脂汗をじっとりと滲ませたトモコは、赤紫に変色した胸の痛みを訴えたが、ジェイソンは無視して電動ノコギリを取り出した。彼は熊田組長のほうを見る。熊田組長は小さく頷いた。それを見てジェイソンはトモコの前に立ち、顔を押さえた。

「え? ちょっと待って、顔、顔はやめてぇぇぇ」

「うるさいぞ」

 ジェイソンはそう呟いて電動ノコギリのスイッチを入れた。凶悪な振動音とトモコの叫び声が混ざり合って響く。
 トモコの鼻は切断された。鼻が無くなり平たくなった顔の中央には縦長の穴が二つ開いており、その穴からはどす黒い赤が大量に滴っていた。さらに、暴れ狂うノコギリの刃により、髪や顔の至る所に血の粒と皮膚の破片が飛び散ってへばり付いていた。
 トモコは目を瞑ってうーうーと唸りながら頭を前後に振っている。
 ジェイソンは止血のために、トモコの醜く開いた患部にアドレナリン注射を打ち込みガーゼを貼った。

「んじゃ一旦休憩するか。テル。お前はここでトモコ見とけ」

「……はい」

 熊田組長とジェイソンは地下室から出た。

*****

 トモコは上を向いたまま動かなかった。テルが心配になり恐る恐る近づいて耳を澄ますと、まだ息をしていることが確認できた。
 かわいそうに。こんなになってしまって……。テルは心底思った。
 地下室の扉が開いて階段から男が一人降りてきた。
 世良だった。世良は身長一八◯センチくらいで、体格もしっかりしている。髭も綺麗に剃り、髪も短く色白なことからそれなりに爽やかではあるが、二重瞼の隙間から覗く鋭い瞳は、サラリーマンの物でないことは誰が見てもわかる。
 世良は熊田興業の若頭で、テルは彼を尊敬して組に入った。怒ると怖いが、筋の通った男でもあった。

「おう」

「お疲れ様です」
 
 テルは頭を下げる。

「大変だなこりゃ……。それにこの部屋なんか臭いぞ」

 世良はトモコを見て顔を顰めた。

「そうですか。自分はずっといたのでわからないですね」

「組長無茶苦茶だろ」

 世良は呆れたような表情で言った。

「組長よりも……あのジェイソンとか言う人が」

「あぁ、あいつな……」

 世良は少し笑って話し始めた。

「実はあいつ、元々医者らしい。でもある時手術失敗で患者殺してしまってな。免許剥奪だ。
 でその後闇医者みたいなことをやってて、それから俺らの直系の相幸会で死体処理を経験して、その後うちの組長に拾われて拷問師になったって話だ」

「そうなんですか……なんかすごい経歴っすね」

「でも、医者から闇医者ってのはわかるけど、その後死体処理って話飛びすぎだろ。さらにそこから拷問師ってのもおかしい。すでに死んでる者を解体すんのと、生きてる者を壊すのでは全く違うからな。つまり元から変態なんだよ。手術を失敗したのもわざとじゃないかって噂だ。
 お前も気をつけろよ。でかいし何考えてるかわかんねぇからな」

 世良はそう言い残して地下室から出て行き、それと入れ替わるようにジェイソンが入ってきた。

「続きやるぞ。カメラ回せ」

「はい……」

 ジェイソンはトモコの顔に張り付いてあるガーゼを剥がした。トモコは何かをぶつぶつと呟いている。

「なんだ?」

 ジェイソンが聞く。

「鼻……私の鼻……」

「そんなにハナが欲しいのか。だったらやるよ」

 ジェイソンはそう言って、台車の上に置いてある赤いカーネーションを取りトモコの鼻腔に入れた。鼻血が垂れ出て、トモコは顔を歪める。
 花はどんどんと奥にまで入っていき、ついに茎が全部入ってしまった。副鼻腔に管を通すのは治療で行われることではあるが、麻酔なしではその苦痛は計り知れない。
 ぐちゅぐちゅという肉の音が聞こえる。

「んががががああああああいいいああああ」

 トモコは涙を流して白目を剥きながら、獣のような叫び声を上げて痙攣し始めた。
 テルは恐怖のあまり全身に汗をかいて、ホラー映画を見る子供のように薄目でトモコを見ていた。
 ジェイソンは花を乱雑に抜き取って捨てる。転がった花を見ると先には赤い肉の塊がこびりついていた。
 トモコは全身を震わせて失禁しながら吐いた。吐瀉物がジェイソンの靴にかかり、腹を立てたジェイソンがトモコを拳で殴った。
 熊田組長が地下室に入ってきた。

「両手両足切断しろ」

 熊田組長は下腹部を大きくしながら嬉しそうにジェイソンに指示した。

「やめて……助け……助けて……」

 テルはカメラのモニターに映る瀕死状態のトモコと目があった。思わずはっとした。心臓が今までにないほど脈を打っている。
 助けを求められている。どうする……。どうする……。
 トモコの黒く塗り潰れた瞳を見て、テルは中学時代を思い出した。

*****

 中学時代、テルには交際している女がいた。女の名はアイナ。
 テルとアイナは幼いなりに、お互い愛し合っていた。放課後は毎日のように近くのゲームセンターでコインゲームをして遊んだ。
 だがアイナはテルに体を許すことがなかった。理由は体に痣があるからだ。父親からの虐待であった。
 テルはそれを知った時、怒り狂った。

「俺が親父に言ってやるよ」

 テルがそう言うが、アイナは「やめて」と言うだけだった。虐待されていても、アイナにとってはたった一人の父親だった。
 ある日、夜に近所の公園で待ち合わせをした。時間になってもアイナがこないので、テルは心配になりアイナの家に行った。
 もしかすると父親からまた虐待を受けているのではないかと危惧し、無断でアイナの自宅扉を開けて中に突入した。するとアイナは裸で、父親に馬乗りで殴られていた。どうやら夜に出歩こうとしたことで叱られているらしかった。
 テルはその時のアイナの叫び声が耳に染みついて離れなかった。

*****

 耳が痛くなるほどの叫び声に我に帰るテル。
 声の方を見ると、トモコがジェイソンに電動ノコギリで腕を切られそうになっていた。ノコギリの刃がトモコの左肘に減り込んで、鮮血を撒き散らしていた。
 その時、テルの目にはトモコとアイナが重なって見えていた。
 
「何してんだよ、俺……」

「こらテル。ちゃんと撮れ」

 熊田組長が怒鳴った。

「何してんだよ……」

「お前が何してんだ」 

 後ろから肩を掴んできた熊田組長の顔面にテルはエルボーを叩き込んだ。熊田組長は情けない声を出して尻餅をつく。
 反射的にやってしまった。一瞬、テルの中の時間が止まったような気がしたが、熊田組長の時間も同じように止まっていただろう。熊田組長は何が起きたかわからないという様子で、尻もちをついたまま固まっていた。
 異変に気付いたジェイソンが電動ノコギリのスイッチを切り振り返った。テルとジェイソンの目が合う。アイナの家に行ったときも、異変に気付いた父親と目が合った。その時の光景がはっきりと蘇る。

 テルは気づけばジェイソンの元へ走っていき、いつも携帯しているバタフライナイフでジェイソンの脇腹を刺していた。ジェイソンは後ろによろけて倒れた。
 辺り全体がスローモーションになったように感じた。自分でも何がなんだかわからない。ふわふわした感覚だった。
 もういい! どうにでもなれ!
 テルは拷問器具が積んである台車を勢いよく蹴り倒した。

「逃げるぞ!」

 テルはトモコの拘束を解き、抱え上げた。

「おいおいおい! お前何してんだ」

 熊田組長が鼻を押さえながらテルの元へ走ってきたが、テルは熊田組長の腹を蹴って吹っ飛ばす。
 痛がるトモコを無理やりおんぶして、地下室の階段を駆け上がった。


*****

 テルたちはトライゾンというホテルに身を隠した。トライゾンは三階建で一階につき八部屋の全二十四部屋だった。今はまだ午後四時で部屋も空室が多かった。
 トモコはベッドで寝ている。
 テルはソファーに座ってこれからどうするか考えていた。
 とりあえずホテルにいれば見つかることはないが、ホテルに滞在できる時間は翌朝までだ。仲間に頼ると居場所がばれてしまう可能性も高い。そして何より問題なのはトモコだった。
 トモコはさっきまで全身の痛みを訴えて、見ているのも辛い状態だった。ジェイソンに切られそうになっていた左肘の怪我は、ガムテープでぐるぐる巻きにして止血してある。だが、指の怪我もそうだし、鼻の怪我も胸の怪我も、しっかり治療しないと非常に危険だ。このまま放っておくと死ぬかもしれなかった。さっきまでの痛がりようだと持って三日、いや二日かもしれない。
 テルはため息をついた。トモコの命を救いたくて組長を裏切った。なのにここでトモコを放っておいて殺してしまっては元も子もない。一番いい選択は、トモコを病院に連れて行って命を救い、何もかも警察に話して自分は逮捕されることだ。熊田組長からしても、テルに警察に駆け込まれるのが一番怖いはずなのだ。

 テルは立ち上がってバスルームに向かい、シャワーを浴びた。シャワーから出る暖かい湯の束が、テルの汗ばんだ体を弾いて滑り落ちていく。
 一息つく。
 中学時代。結局テルはアイナの父親をガラス製の灰皿で撲殺した。
 血だるまになった父親を見下ろしながら、テルはアイナのすすり泣く声を延々と聞いていた。あの光景は今でも忘れることができなかった。
 アイナの父親を殺したことでテルは逮捕され、少年院に入った。アイナとはそれ以降連絡を取っていない。テルは心のどこかでアイナは自分に惚れ直すだろうと考えていた。だが実際は逆効果だった。
 人生の階段を踏み外したテルは、少年院から出てもすることがなかった。
 若くして日雇い労働で食い扶持を繋ぎ、ふらふらと過ごす毎日。そんな時、飲み屋で喧嘩した相手が熊田興業の準構成員だった。それがきっかけで世良にスカウトされ、テルはヤクザになってしまったのだ。
 自業自得と言えばそれまでだ。だがテルは自分のした行為がどうしても間違っているようには思えなかった。確かに人を殺すのはいけないことだ。だが自分の娘に暴力をふるう親に生きる資格があるのか、というのがテルの正直な意見だった。
 自分のした行為によってアイナを傷つけてしまったけれど、またもし同じ状況がくれば自分はやってしまうかもしれない。いや、確実にやるだろう。俺は間違っていない。悪いのはあの父親だ。殺されて当然なんだ。
 テルはそうやって半ば開き直りに近い考えを自分の中に育て上げてしまっていた。だがその後すぐ後悔し、そして次は開き直り、また後悔する。ぐるぐると同じ思考を繰り返すのだ。
 今回もまた、一時の感情に身を任せて無茶な行動をしてしまった。
 でも今は、トモコを助けたという行為に少し気持ち良くなっている自分がいた。一つ後悔しているとすれば、世良を裏切ってしまったことだった。自分の尊敬している人に狙われることになるかもしれないことが怖かった。
 世良は組長の拷問の件をどう考えていたのだろう。悪いと思っていたのだろうか。少なくとも良くは思っていなかったはずだとテルは思う。
 バスルームから出てさっき着ていた服をまた着て、冷蔵庫を開ける。缶ビールやジュースやペットボトルのお茶が、小さいボックスに入って並んである。自動販売機のように、それぞれのボックスの上にある小さいボタンを押すとボックスが開いて飲める。精算はチェックアウトのときに済ます仕組みだった。
 テルは缶ビールを取ってソファーに深く腰掛けた。そして辺りを見回す。壁一面朱色で、天井は濃いグレーの派手な部屋だ。赤いソファーの前にはガラステーブルがあり、テーブルの下の段には食べ物のメニューやテレビのリモコンが置いてある。ソファーの横には二人用のベッドがあった。
 缶のプルトップを開けると炭酸の抜ける音が鳴る。テルは一気に喉に流しこんだ。冷たいビールが喉を通り過ぎると、冷たさと炭酸の刺激で喉の筋肉が引き締まるような感覚がした。そして、決して良質とは言えない仄かなアルコールの細波を感じ、ホップの香ばしい香りが広がった。
 
「何してんの」

 テルは驚いてズボンの上にビールをこぼした。
 声の方を見ると、ベッドに横になっているトモコが首だけをこちらに向けていた。

「お、おう……。起きたか。大丈夫か?」

「どこ?」

「どこって……。ホテルだよ」

「なんで?」

 トモコはまさに放心状態といった様子だった。

「なんでって……お前は殺されかけてたんだぞ。もうちょっとしたら警察を呼ぶから大丈夫だ」

 テルが言うと、トモコの顔が見る見るうちに変わっていった。

「とにかく、これで命は助かるんだ」

 トモコはいきなり、耳を劈くような叫び声をあげた。体をじたばたさせて子供のように泣いた。何かを言っているが聞き取れない。
 興奮したせいか、鼻に貼ってあるガーゼの隙間から、体液と混ざって薄くなった血が流れている。

「おい! 落ち着けよ。なんだよいったい」

「なんてことしてくれたの! ひどいひどいひどい!」

 トモコは爪を立てて自分の頭を掻き毟った。

「どうしたんだよ! 何があった」

「私は拷問されて殺されるのが夢だったのにぃぃぃぃ! 今すぐ私を帰して! 帰してよぉぉぉ!」

 テルは手に持っていた缶ビールを落とした。
 拷問されるのが夢? 何を言っている……どういうことだ……。
 パニックになりそうだった。
 今でもトモコは組長の愛人であり、あの拷問はプレイだったということか? 
 恋人にふられた気分になって吐きそうなテルを、トモコはまるで親の仇でもあるかのように睨みつけていた。

「あんたが助けたせいで全て台無しだ……」

 やってしまった……。
 テルはソファーにへたり込んだ。

*****

 トモコは暴れ疲れてまた寝静まった。落ち着いたところで、テルは風呂を沸かして湯船に浸かりながらビールを飲んでいた。
 まるでどうすればいいのかわからない。トモコを殺して逃げるか、とも考えた。だがテルには出来なかった。怒りの感情を利用して人を殺すことは容易いが、利害を計算した上での合理的な行動としての殺しはどうしても出来なかった。倫理的に許せないわけではなく、単純に怖かったのだ。
 それに彼女を殺したところでもうどうにもならない。逃げると言っても行くところもなかった。家には帰れないし、金もない。だから遠くに逃げることも難しい。
 天井を見つめながら深くため息をついた後、テルは自嘲気味に笑った。自分の馬鹿さ加減に嫌気がさした、というのも勿論のこと、恥ずかしいという気持ちも少しあった。自分一人で勝手に舞い上がり、人を助けたつもりがその結果相手を傷つけ、さらに自分をも苦しめる始末。
 またあの時と同じだ……。
 テルはビールを一気に飲み干した。もう酔いも覚めた。これが三本目の缶だったが、全く酔えそうにない。
 目を瞑って諦めにも似た感情に身を任せた。緊張や恥や喪失感も少し薄らいでいくように感じる。皮膚をピリピリと刺激する湯船のお湯が心地いい。このまま寝てしまいそうだった。
 換気扇の音も、ノズルから垂れる水滴の音も、遠のいて小さくなる。
 まあ何とかなるだろう。そう思って落ち着いていると、外から誰かの声が聞こえてきた。
 トモコが起きたのか? 一人で何を喋ってるんだ。
 テルは目を瞑りながら考える。
 いや違う……これは男の声だ。テレビの音か?
 テルは目を開けて体勢を起こし、耳を澄ませた。
 誰だ? この声は……複数人だ。近い。近づいてくる……。
 テルは湯船から飛び出した。それと同時に風呂場の扉が勢いよく開けられる。そこに立っていたのはジェイソンだった。
 何故? そう思う前に出た言葉は言い訳だった。

「いや違う! 違うんだ!」
 
 ジェイソンの後ろから熊田組長が顔を出した。その顔は、迷子になった息子を見つけた親のような笑顔だった。
 全身の毛穴が開く。
 どうすれば許してもらえるだろうか。テルの思考回路は今までにないほどの高速回転を始めた。だが追い詰められた人間のとる行動は大体同じだ。結局はみな、相手に気の毒だと思われようとするらしい。
 テルは情けない表情をして何度も謝った。心のどこかでは無理だとはわかっていても、必死に可哀想な人物を演じる。これは計算ではなく、無意識の内にそうなってしまうのだ。
 テルはジェイソンに髪を掴まれ外に引きずり出された。ベッドの横に倒され人に囲まれる。顔を上げると熊田組長とジェイソンと世良がいた。
 
「お前よぉ、自分が何したかわかってんのか」

 熊田組長がしゃがんで言った。

「殺しちゃってよ」

 ベッドの上からトモコが言う。
 起きていたらしい。テルは眉間に皺を寄せた。

「トモコが連絡くれたから良かったものの、もしすでに死んでたら見つからなかったろうな。ったく、危なかったぜ」

 熊田組長はトモコを見て笑った。
 テルは黙っている。

「お前わかってるな。俺を裏切ったんだから覚悟しとけよ」

 熊田組長そう言って立ち上がった。

「お前はトモコの変態性がわかってねぇ。こいつは究極のマゾだ。本当に苦しまないと満足できない。だから俺らは徹底的に苦しめる。その結果こいつはプレイの途中、本気で助けを求める。だがそれは本当に助けてほしいわけじゃない。いや、助けてほしいんだが、助けてほしくないんだ。助けてほしいのに助けてもらえないという状況も込みで楽しんでいるんだ。それを勘違いして助けやがって。馬鹿だなぁ、テルよ」

 テルはふと怒りが湧いてきた。俺は良いことをしたのに、何故怒られないといけないんだ。そんな感情が体の中心から熱いものとなって全身に広がる。一気に顔が熱くなった。ふざけんじゃねぇ。ふざけんじゃねぇぞ。

「そもそもテメェが事情を話してたらこんなことにはなってねえだろうが! プレイでやってんなら初めからプレイって言っとけや。変態野郎が!」

 テルは立ち上がって熊田組長の胸ぐらを掴んだ。
 その時、左太股に鋭い痛みが走る。見ると熊田組長はテルの太股をナイフで刺していた。腕の力だけで刺したので深くは刺さっていないが、テルは驚いて離れる。そこに熊田組長は前蹴りを放ち、テルの顔面を蹴る。テルは勢いよく倒れた。
 
「そりゃお前、趣味で拷問してるなんて噂広まったら問題あるし、なるべく言わない方がいいだろ? それに個人的な趣味のために組の金使ってるのも知れたらヤバイしな。必要最小限の奴らしか知らねぇんだよ。賢いやり方じゃねぇか」

 よくわからない理論だった。プレイだろうがプレイじゃなかろうが拷問をしているという事実はあるのだからそれを見られている時点で隠しても意味がないし、むしろプレイだと伝えたほうがテルの罪悪感も少なくて済み、後から良心の呵責に苛まれて警察に垂れ込む可能性も低くできる。
 本音を言えば熊田組長は、テルを脅かして楽しみたかったというのもあったのかもしれない。
 それと今の熊田組長のセリフから考えて、拷問ハウスのことは管理者であるテルと組長の右腕である世良と拷問師のジェイソンしか知らないらしい。だからこんな一大事でもこの三人しかこの場に現れなかったのだ。
 
「俺をどうするつもりだ」

 テルは聞いたが、どうなるかは自分でもわかっていた。
 
「そりゃ死んでもらうさ」

 わかっていても直接言葉にして聞くとショックが大きかった。

「お前は色々なことを知っている存在であり、しかも裏切る可能性のある奴だということがわかった。生かしておくわけにはいかんな」

「それはおかしいっすよ」

「何がだ」

「俺はあの拷問がプレイだと知らなかったから裏切っただけで、プレイだとわかっていたら誰にも言いませんし、ちゃんとやりますって」

 熊田組長は刺すような冷たい視線をテルに向けた。

「馬鹿かお前。じゃあ逆に言えばプレイじゃない場合は裏切りますって言ってるようなもんじゃねぇか。そうだろ。プレイだろうとプレイじゃなかろうと仕事はきっちりこなせ。親の言ったことは絶対なんだよ」

 熊田組長の言う通りだった。どんな理由であれ、一度でも裏切れば信用はなくなる。特にヤクザの世界では汚いことも沢山やらなければならない。組長からすればそういった仕事を全うできる人間が必要であって、仕事の内容によって態度が変わる人間はいらない。それに本音を言えば、自分が殴られたことに対する怒りもあるはずだった。
 テルはこの場を切り抜ける方法を考えた。
 相手は三人。熊田組長は一対一なら余裕で勝てる。もう一人は世良。彼は喧嘩が強いことで有名だ。一対一でも勝てるかどうかは怪しい。だが人間は複数人で一人をやるときは油断する。つまり一対一のときよりは弱くなるのだ。だから勢いで勝てる可能性もある。一番問題なのはジェイソンだった。彼は身長が一九◯センチ近くあり体つきもテルより一回り以上大きい。こっちに武器がない状況ではまず勝ち目がないだろう。
 はっきり言って絶望的な状況だった。だが勝ち目が低いからといって、どうせ死ぬならやろうがやるまいが同じことだ。だったら少ない可能性にかけても理屈上問題はない。
 もしやるとすれば、ここで暴れたほうがメリットも大きい。どこか人気のない所へ連れて行かれてから暴れても、途中で助けが来ることはないから全員に勝たないといけない。しかしこういった公共の場所なら異変に気付いたスタッフが通報してくれる可能性もある。
 テルは二三回頷いた。
 だったら全員に勝たなくてもいい。大人しくしているふりをして、急に暴れる。そして相手が怯んだところで外に飛び出してスタッフに声をかける。後は警察が来るまでの間、殺されないように粘ればいいだけだ。
 いける。いけるぞ。
 テルは自分を奮い立たせた。
 テルから見て左には世良がいて、中央には熊田組長、右はジェイソンだ。熊田組長を倒して真っ直ぐ走れば出入り口。
 世良がずっと黙っていることが不気味だったがとりあえずいくしかない。

「じゃあ行くぞ」

 熊田組長が出入り口に向かおうとしたその時、テルは立ち上がって熊田組長の顔面に頭突きをした。熊田組長は仰向けに倒れる。
 そして間髪入れずに、右手でジェイソンの鼻に裏拳を入れて、そのまま右足でジェイソンの腹を蹴る。ジェイソンは後ろによろめいて壁に背をぶつけた。
 蹴った勢いでテルの体も左に流れるが、その勢いを利用して世良に肩でタックルをした。
 三人に囲まれて圧迫されていた視界が開けて、出入り口の扉が見える。テルがそのまま走り出そうとした時、耳を突き抜ける破裂音が二回響いた。
 なんだ……? 何が起こった……。
 硝煙の香りが鼻につく。視線を少し下に降ろすと、倒れた熊田組長がリボルバーの銃をこちらに向けていた。
 自分の体を見ると、先ほど刺された左太股の少し上に赤黒い穴が開いていた。テルは驚いて目を見開いた。熱い棒を傷口に入れて掻き回されるような痛みがした。
 両手で左太股を掴みながら右足で後ろにピョンピョンと跳ね、そのまま後ろのベッドに座る。

「痛ぇぇ……」

「お前殺す」

 熊田組長が銃を構えて立ち上がり、テルの目の前まで来た。
 駄目だ……。死ぬ……。
 テルが死を覚悟した時、誰かが熊田組長の銃を持つ腕を掴んで上げた。

「ここでやったらまずいですよ。もしかしたら銃声も聞かれたかもしれません。早く連れ出して、それから落ち着いてバラしましょう」

 世良だった。熊田組長も世良の意見を素直に聞いて銃をベルトに挟んだ。

「じゃあさっさと行くぞ!」

 熊田組長はテルの頬を殴った。

*****

 テルは手錠を掛けられ、貨物自動車の荷台に入れられて運ばれていた。
 世良の行っているしのぎの一つに、貿易業があった。貿易は輸入がメインで、ロシアから蟹を大量に仕入れている。だがそれは表向きの仕事であり、本当は銃を密輸することが目的であった。
 世良が言うには、昔は駐留米軍からの横流しで銃を入手していたらしいが、今はもっぱらロシアからの密輸だ。
 テルの所属する熊田興業は構成員が約三四◯人で、準構成員が八◯人程度。しのぎは風俗経営からバーやクラブのみかじめ料、準構成員らによる詐欺なども含まれている。だが組の稼ぎの大多数を占めるのは、世良の行う貿易業だった。
 テルが乗せられているトラックは、その仕事で使う為の車である。運転手は当然組員で、運ばれる先は海だった。今から数分後にテルは殺されるのだ。
 テルは撃たれた脚の痛みに耐えながら、蒸し暑くて真っ暗な空間で横になっていた。
 目的地に着くまでの道中、テルはひたすら自分を責め立てた。
 何故あの時トモコを助けてしまったのだろう。黙ってカメラに撮っていればこんなことにはならなかったのに。そもそも子供の頃から協調性がなかった。自分の正しいと思うこと以外、従ったことはない。そんな奴がヤクザになること自体、土台無理があったんだ。ならなんで、あの時世良に誘われてヤクザになってしまったのだろう。後先を考えずに行動する癖を治したい。テルはそう思った。だがその後すぐ、今更治しても無駄だと気付き、泣きそうになった。
 意味のないことをぼうっと考えていると、車が止まった感じがして、荷台の扉が開かれた。テルの目に刺すような光が入ってくる。時刻は午後六時。オレンジで眩い夕焼けが鬱陶しかった。
 ジェイソンと、トラックを運転してきた作業服を着た男に引きずり出された。
 テルが降り立った場所は、一艘の船が停まっている停泊場だった。船は中型漁船で、すでに熊田組長と世良が乗っている。あともう一人、船の前には漁師のような男がいた。


「これは……」

 テルが聞くが、ジェイソンは無視してテルを漁船に乗せて、自分も乗った。
 
「じゃあ失礼します」

 トラックの運転手は挨拶して帰った。停泊場に残るのは、熊田組長らが乗ってきた黒のセダン一台になった。
 漁師のような男が手際よくビットに結んであるロープを解き、船に乗り込んだ。
 船は夕日の沈む水平線へ向かって進みだした。

*****

 辺り一面海だった。禍々しい程に光り輝く夕日に照らされ、空に浮かぶ雲はいつもより立体的に見えた。初めて乗る漁船の感覚と、見渡す限りに広がる海。仄かに掠める潮の香り。更にその時のテルの精神状態と相まって、全てが非現実的なものに思えた。
 パニックに陥っていた訳ではない。むしろ冷静でいられた。激しい拷問を見た後だからか、こんな綺麗な場所で死ねるならまだましだと感じていた。
 テルは船首に座って同じ船の上に立つ男たちを見る。逆光になって表情はわからないが、そのシルエットで誰が誰だかはっきりわかる。ブリッジには漁師のような男が座っていて、ブリッジの左横に熊田組長が立っている。反対側には世良が立っていて、その前にジェイソンがいた。

「じゃあそろそろやるか。ジェイソン!」

 熊田組長の合図でジェイソンがテルの方に歩いてきた。
 ナイフで刺されるか銃で撃たれるか、それとも重りを付けて海に沈められるか。
 やはり少し緊張した。
 もう終わりか。つまらない人生だった。
 例えばアイナとのことだって今思うと、結局は青春時代の色気付いた大人の真似事にすぎないような気もする。
 現状が満たされていても、無意識に理想の幻影を追い続けていた。いつか必ず、という漠然とした願望が常に付き纏う人生だった。
 あぁ……もっと好きなことを沢山したかったなぁ……。
 テルはそんなことを一通り考えたあと、腕をだらりと下げて、迫り来るジェイソンを睨みつけた。
 その瞬間、聞き覚えのある音がテルの鼓膜を刺激した。反響物のない開放空間で、空全体に響き渡る。
 銃声だった。
 もう一発鳴る。
 目の前にいるジェイソンが膝をついた。
 ジェイソンが振り返ろうとした時、もう一発銃声が鳴ったと思うと、彼は頭から液体を撒き散らして倒れた。
 そこから実際に三秒程時間が止まったように、誰も言葉を発さなかった。
 テルは横たわるジェイソンの死体を見つめていた。前から足音が聞こえて顔を上げると、世良が銃を持って近づいてきていた。
 世良は足でジェイソンの体を転がし、その死に顔を確認して笑った。

「お、おい……何してんだ……世良ぁ……」

 熊田組長がゆっくりと近づいてくる。
 世良が振り返って言った。

「あんたの時代はもう終わりなんだよ」

「は? お前何言ってんの。ふざけんなよ!」

「おい」

 ブリッジに座っていた男がすでに熊田組長の背後に近づいており、世良の合図で熊田組長の動脈をナイフで切った。日が沈んで暗くなりテルにはよく見えなかったが、ボタボタと地面に滴る音によって、大量の血が出ていることがわかった。
 熊田組長はその場に倒れこんで絶命した。
 熊田が……死んだ……。何故だ。どういうことだ……。
 いろんなことが起きすぎて、パニックになりそうだった。
 それから少しして、テルは口を開く。

「これ、どういうことですか……」

 世良がテルの方を向いて言った。

「ああ、こいつは無能で邪魔だからな」

「はぁ……」

「大多数の構成員は俺側についている。随分と前から裏から手を回してた。
 本当はまだ実行するつもりじゃなかったが、お前のせいで急遽やることになったんだよ」

「じゃあ俺は……」

「お前は根性あるし殺さないでおいてやるよ」

 世良は冗談っぽくそう言って爽やかに笑った。
 テルは後から知ったことだが、世良は合理主義者であり、無駄金を使ったり意味のないいじめや殺人を繰り返す熊田組長を快く思っていなかった。さらに他人に従うことを嫌う性格から、直系の親組織である相幸会のことまで嫌っており、いつか自分が乗っ取ってしまうつもりなのだ。その為、彼は前々から組内で信用できる人物を探しており、すでにほとんどの組員を手中に収めていた。
 世良はテルのことは元々買っていたらしいが、今回熊田組長に反発したことで益々気に入られたようだった。
 今回の件で、世良にとっては熊田を消す良い機会になったし、自分の気に入った部下を確保できるということで一石二鳥だった。
 世良は人心掌握が上手い。命を助けられたテルは、益々世良に惚れ込む事になった。

「おいテル。今から沈めっけど、その前に内臓全部取り出すぞ」

 世良が言った。

「え、今からですか?」

「いいからやるんだよ。お前も手伝え」

「なんで内臓を……」

「そのまま沈めたら腐敗ガスが溜まって浮いてくるからだよ。
 ほらさっさとやるぞ。もう夜だ」

 テルは世良から手渡されたメスを手に取った。
 今日は散々な一日だ。

 

END