愚かなる独白

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ろくでなしの雑記

言葉は正しく使うべきだと言っておく

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ネット上で議論になると、結局は本題をそっちのけで、一つの言葉を巡って揚げ足取り合戦になり、最終的に「まぁ言語というのは日々変化していくものだからね」みたいな結論に至るのをよく見る。

確かに言語は日々変化していくものだ。しかしだからといって、すでに定義してある言葉を、積極的に違う意味で使っていいわけではない。もう世間のほとんどの人が、本来の意味とは違うニュアンスで認識している場合は仕方がないとしても、そうでないのならばしっかりと定義を調べてお互いに認識し、よく考えて言葉を使うべきだと思う。

僕も話は苦手だし文章も上手くないが、それでも学生時代、国語と数学だけはズバ抜けて点数が高かったということもあって、特に言語に関しては真摯に考えている方だと思う。今日はそんな僕が言葉について少し考えてを書いてみようと思う。

言葉は一体何の為にあるのか

多くの人は、言葉はコミュニケーションをとるためにある、と思っているかもしれないが、実は違う。コミュニケーションをとる為であれば、別に言葉は必要無い。人間以外の動物だって、言葉以外の方法を使ってコミュニケーションをとる。

人間は言葉を使って、全てを認識し、思考し、理解し、洞察し、表現する。つまり言葉は人間の知性だ。知性ということはつまり人間の本質と言っても過言ではない。言葉を使いこなすからこそ、人間は人間であるのだ。

言葉というのはそれほど大切であり、その言葉を疎かに考えている人ははっきり言って信用ならない。信用ならないというのは何も人を欺くとかそういうことを言ってるわけではなく、言語に対して不誠実な人はそもそも思考もズレている可能性が高く、また本人もそのことに気づいていない。簡単に言うと、言葉を正確に使わない人はバカであるということだ。そういう意味で信用ならない。

 

普段どうやってコミュニケーションをとるか

大層に書いてみたものの、僕自身、普段の会話などではさほど正確さを求めていないのも事実。僕の話している内容を文面に起こすとおそらく間違いも多いだろう。

ネットで言葉について検索してみると多くあるのが、言葉の不正確さによる対人でのトラブル。だがはっきり言ってそんなものはどうだっていい。我々は普段の会話では、それまでの知識や経験から言葉の意味を読み取っている。その都度言葉の本来の意味や成り立ちなどを考えない。こういう状況でこういう発言をした場合はこうだな、と解釈しているだけだ。だから多少の認識のズレがあっても後で説明しなおせば済む話だし、よっぽどのことでない限り笑い話で終わりだ。

普段のコミュニケーションなんていうのはそんなもので、そもそも人間は言葉よりも態度を信用する。もっと正確に言えば、発言と態度が矛盾している場合、態度を信じるのが人間の心理だ。

例えば、「好きだよ」と女に声をかけて「うるさいバカ」と拒否していても、その子が顔を赤らめて恥ずかしそうにしていると、喜んでいると判断するのだ。

これは心理学でメラビアンの法則と呼ばれている。よく誤解されているが、あくまで発言と態度が矛盾している場合のみだし、相手に好意や反感などの単純なメッセージを伝える場合など、限定化された条件でのみ発生する法則だ。

話が少し脱線したが、とにかく、普段のコミュニケーションにおいてはさほど言葉の正確さを気にする必要はないだろう。

 

間違った言語を使うと思考がズレる

それ以上に問題なのが、間違った言葉を使っていると(間違って覚えていると)思考自体も間違った方に流れていくということだ。簡単な例を出すが、リンゴのことをバナナという言葉で覚えていると、「くまのプーさんの肌の色はなんでしょう。ヒントはバナナと同じ色」というクイズがあった場合、論理的に答えを導き出せなくなってしまう、というような問題が発生するということだ。

いい加減に言葉を使っているがために、おかしな思考に陥ってしまっている人をよくネット上でも見かける。前にYouTubeのコメント欄で、「外人という言葉は差別だ」というものがあった。それに対してレスがいくつもついており、反論やら同意を示すものもあった。

僕は外人は差別用語ではないと思っている。外人は外国人の略だし、自国の人間以外を示す言葉であって、その言葉自体に差別的な意味合いはない。僕はそもそも”差別用語”なんてものは存在しないと主張している。言葉はあくまで言葉でしかない。ある言葉をどういう文脈で使ったのかということの方がよっぽど大事だ。

つまりこの場合、外人という言葉をどうやって使ったかが問題だ。ただ単に外国の人を指すときに使ったのか、友達と寿司に行く約束をしている時に留学生の友達が自分も行きたいと主張すると「お前は外人だから生魚食えないだろ」と言ったのかで全然違ってくる。全ては文脈が大事なのだと思う。だから差別表現はあっても差別用語など(侮辱専門の造語などの例を除き)存在し得ない。

と、このように、一つの言葉を取ってもみても、言葉を正確に認識していない(というより言葉について深く考えていない)人は外人という言葉を差別用語とし、単語に罪を被せ、差別の本質を見誤っている。差別になりそうな言語を使わなければいいわけではないのに。

あくまで一例にしか過ぎないが、この手の問題は数多くある。

 

造語における言葉の安易さ

これは造語だが、”中二病”という言葉も(発案者は伊集院光中二病 - Wikipedia)、本来は「中学2年生頃の思春期に見られる、背伸びしがちな言動」を自虐する語であったが、間違った解釈が広まってしまった。例えば映画『ファイトクラブ』は中二映画と認識されたり、ロックバンドのニルバーナは中二バンドと言われている。あろうことか、ボーカルのカート・コバーン中二病と言う奴まで出てくる始末だ。

伊集院光が定義した中二病という言葉は、元々あった概念を言語化したのであって、無から有を生み出したわけではない。でも間違って広まった中二病は、無から有を生み出した。つまり、中二病という言葉だけが作られ、その本質はまったく空虚で無意味な錯覚の概念であり、その錯覚に人々が引っ張られているという滑稽な状態になってしまっている。

本当はおかしいのだ。ファイトクラブは中二映画ではないし、ニルバーナも中二バンドではない。そもそも間違って広まった中二病の定義はなんだ。どういったものを指すのだ。ファイトクラブが中二映画だという根拠はどこにある。ニルバーナの何を指して中二病なんだ。

結局非常にぼんやりとした抽象的な感覚で使われているだけ。それは実態がないからだ。つまり、ぼんやりと定義づけもされないまま中二病という言葉が氾濫し、わけもわからずなんとなくであらゆるものに中二病認定するからこうなる。要は、定義されていない意味のわからない単語を使って、なんとなくであらゆる物に当てはめて、新しい概念が生まれたのだ。そしてその概念は人々の感性の集合体によって、無自覚に作られた空虚な概念である。

元々ある概念を言語化することには非常に意味がある。上記したように、人間は言葉で思考をするから、漠然とした概念を言語化することによって思考がスムーズになるし、物事も分析しやすくなる。だが無理やり言葉を作って醸成した空虚な概念は、なんの意味もないばかりか、正常な判断をできなくし(例えばファイトクラブという傑作を正当に評価できない風潮がでたりする)、人の行動に制限を作ってしまうという弊害がある(中二病だと揶揄されるのが怖くてニルバーナを聴かないなど)。

つまり、例え造語だとしても安易に作るべきではないし、「言葉というのは変化していくものだから」で済ましていい問題でもない。変化した結果が正しくないと感じるのであれば、それは正していくべきだと思う。

 

言葉は深く論理的に突き詰めて考えていかねばならない

普段の会話はある程度不正確に使ってもいいと思うが、ちゃんと言葉の本来の意味や、使い方などを理解しておかなければならない。もしそうしないと思考からズレが生じ、いざという時に間違った選択をしてしまう可能性もある。これは逆説的に言えば、言葉を正しく理解できていると賢くなるということでもある。昔は「国語なんてどうでもいい」と思っていたが、今になって日本語をしっかり勉強することの大切さがよくわかる。

まとめると
・言葉は人間が思考する為にある
・間違った言葉を使っていると正しい思考ができない
・造語といえども安易に作るべきではない
・常に言葉には気をつけて論理的に突き詰めて考えるべきだ
ファイトクラブは傑作